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- 2020年度修士論文要旨
イリーナ・スクーチナ
17~18世紀のロシア側探検家・研究者から見たカムチャツカの先住民族 ークリル人を中心にー
【キーワード:カムチャツカ、千島列島、クリル人、アイヌ、他者表象】
本研究は、17世紀~18世紀にカムチャツカ半島を訪れたロシア側の探検家や研究者がまとめた資料を歴史的な背景を配慮しながらエスノグラフィーとして読むことによって、当時、カムチャツカ半島南端とカムチャツカに近い千島列島の島に居住していたクリル民族をどのように捉え、どのように表象したかということに焦点を当て、その意味と理由を考察することを目的とする。
カムチャツカ半島は、17世紀の半ばにロシア帝国のコサックにより発見され、1697年にアトラソフの探検隊によってロシア領とされた。ロシアの一部となった他のシベリア地域のように、カムチャツカもあらゆる側面から調査の対象となった。もちろん、彼らはカムチャツカの先住民族にも興味をひかれたので、その身体的な特徴や言語、生活様式についても記述している。その先住民の中の1つが、カムチャツカ南端と、半島から南に延びる千島列島の島々に住む「クリル人」とロシア人に呼ばれていた民族であった。19世紀の初めにその民族の姿がカムチャツカから消滅したが、カムチャツカを探検した人からの記述が少々残されている。クリル人に関する情報が、ロシアの文献においてはじめてコサックのウラジーミル・アトラソフの報告書に短く述べられ、18世紀に入ってから学者のステパン・クラシェニンニコフにより具体的に記録された。
それらの記述はほとんど歴史的な研究の対象になってきたが、今までは文化人類学的な側面から十分に研究されてこなかった。カムチャツカに来ることで、ロシア人はクリル人も含めた先住民族と必然的に接触することになった。では、先住民族という他者との出会いを、彼らはどのように捉え、どのように解釈したか、その解釈の背景に何があったのかについてより深く調べる必要がある。オリエンタリズム批判やコンタクト・ゾーン論など植民地状況における他者表象を分析するアプローチに依拠しながら、17~18世紀の探検家や研究者の書いた記録を批判的に考察することによって、その著者が単独というよりはむしろ複雑な関係性の中で活動したことが明白になり、カムチャツカと千島列島の歴史、そしてロシア側の人と先住民族、特にクリル人との関係が新しい側面から見えてくるだろう。
序論という第1章では本研究の課題やその背景を紹介し、研究の目的と意義を解説する。
第2章には、文化人類学と植民地主義の関係性について説明し、文献分析において重要になるオリエンタリズム、オリエンタリズム批判、他者表象、コンタクト・ゾーンという文化人類学的な概念を紹介し、それらの概念を導入した研究を見る。
第3章にはコンタクト・ゾーンと関連しているフロンティア理論の観点から米国とロシアが行われてきたシベリア植民地化の研究とその歴史を考察する。
その次の第4章では、カムチャツカ半島とその歴史を紹介し、17~18世紀のカムチャツカ先住民族(特にカムチャツカ南端のクリル人とその記述の特徴)について解説し、本研究において取り扱う、カムチャツカを記述する歴史的な文献とその著者を簡潔に述べる。
第5章では、ウラジーミル・アトラソフというコサック探検家の生涯、彼のカムチャツカについての報告書(『第二の話』)とその内容を取り上げる。
第6章では、ステパン・クラシェニンニコフという研究者の生涯、残されている資料(『カムチャツカ地誌』)とその具体的な内容を見る。
そして第7章では、アトラソフとクラシェニンニコフの2つの文献の分析において見られた共通点、相違点、などの重点をまとめる。
8章では本研究の調査結果をまとめ、残された課題について説明する。
最後に本研究の中に取り上げられる文献のロシア語原文と邦訳を付録として追加する。
17~18世紀のロシア側探検家・研究者の記述におけるカムチャツカ先住民族、特にクリル人をめぐる表象を考察してきた結果として、分析されてきた文献の中でプラスイメージの自己―マイナスイメージの他者という二項対立的な考え方が明らかとなった。言語、そして宗教・信仰の相違に基づいた他者化は特によく見られるが、『カムチャツカ地誌』のクラシェニンニコフはおそらくカムチャツカ先住民族だけではなく、カムチャツカのロシア人古参者も他者として見なしていたと言えるかもしれない。
コンタクト・ゾーン成立の有無に関しては、アトラソフとその探検隊がカムチャツカの奥部まで進出したはじめてのロシア側の人物であり、現地人と密な接触ができたので、カムチャツカでのコンタクト・ゾーン成立の始まりでもあったではないかと思われるが、クラシェニンニコフの時代の場合にはロシア人とカムチャツカ先住民族の関係は、ただの植民者-被植民者という一方的な支配的な関係(フロンティア)ではなく、影響を及ぼし合う相互関係(コンタクト・ゾーン)の形を確かに担っていたことが分かった。