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- 2019年度修士論文要旨
酒井 マナ
日本におけるイスラエル・ディアスポラ ―4人のライフストーリーをもとに―
【キーワード:イスラエル・ディアスポラ、ユダヤ人、日本、ライフストーリー、実存的移動】
本稿の目的は、西洋中心のイスラエル・ディアスポラ研究で注目されることのなかった日本に居住するイスラエル・ユダヤ人のうち、4人のライフストーリーをもとにして、彼らの移動がもたらす祖国への帰属意識、帰還の意志、ディアスポラとしての宗教的・文化的実践や日本への思いをエスノグラフィーの手法を用いて明らかにすることである。
本稿は9章構成である。序章である第1章では、本稿の研究設問とその背景を述べる。研究設問は、上記の目的に挙げたものに加えて、日本に暮らすイスラエル・ユダヤ人の営む生活にはどういった個の願望(したいこと/したくないこと)が反映され、それによってどのような関係性が生み出されるのかを探ることである。
第2章では、本稿の理論的テーマであるディアスポラに関する先行研究のレビューを行い、本稿の議論を進めるうえで中心的となる概念を説明する。2.1では、ディアスポラの意味や指示対象の拡張の経緯と、構成する中心的要素を概観する。2.2ではディアスポラ研究の意義を論じる。2.3では研究者の間で議論されてきた起源としてのルーツ(roots)と経路としてのルーツ(routes)に着目し、二項対立的に捉えるのではなく、その双方の視点を取り入れてディアスポラの現象を分析することを提起する。2.4ではこれまで国民国家からの逸脱とされた国境を越えた移動が持つ意味合いを再考するにあたって有用となる、ハージの実存的移動の概念を紹介する。
第3章では、イスラエル・ディアスポラの先行研究を概観するとともに、その現象の背景にあるイスラエル建国とその基盤となったシオニズムの影響をはじめ、イスラエル国内外のユダヤ人移民史をたどり、日本との関係を歴史的文脈に即して説明する。
第4章では、本稿で採用したライフストーリーという研究手法とその意義、また筆者が実施したフィールドワークの方法を説明し、第5章から第8章のライフストーリーに登場する4人のイスラエル・ユダヤ人をはじめとした調査協力者を一覧にしてまとめる。
第5章ではAlex氏のライフストーリーを記述する。徴兵後の旅行で日本に渡って以来、在住歴27年となるAlex氏は日本人妻と二人の子どもを持ち、ツアーガイドとして働く。日本人との意思疎通や経済基盤の確立に苦労し、また子どもの成長に伴い、イスラエルやユダヤ文化を家庭で継承する難しさに直面するAlex氏にとって、日本での生活は「闘い」だ。本章ではそうした状況のなか、様々なかたちで母国と繋がり、唯一の故郷であるイスラエルへの強い帰属意識や帰還の意志を抱いて日本で暮らすAlex氏の姿が描かれている。
第6章ではRon氏のライフストーリーを記述する。(プライバシーの関係上、省略)
第7章ではKaren氏のライフストーリーを記述する。女優とセラピストの夢を追って来日して以来、在住歴10年となるKaren氏は日本人夫と一人の子どもを持ち、セラピストとして働く。思い描いていた生活とのずれや女性としての難しさを経験しながらも、Karen氏は息子に宗教色を除いたかたちで自らの伝統や文化を継承する。本章では永住ではなく、短期間の帰還という選択を残しながら、日本とイスラエルを繋ぐ使命感を抱くKaren氏の姿が描かれている。
第8章ではSamantha氏のライフストーリーを記述する。結婚を機に来日し、在住歴22年となるSamantha氏は日本人夫と四人の子どもを持ち、時折英語レッスンを開講しながら家庭を支える。当初、イスラエルへの帰還を想定していたSamantha氏はシナゴーグや家庭のなかで子どもと祝祭日を祝ったが、地元の生活に馴染むにつれ、日本で育つ子どもに文化や伝統を継承しないことを選択した。家族のいる場所を故郷とみなすSamantha氏の語りからはイスラエル人としての誇りや出身地とのかかわりを維持しながらも、「母」なる日本で今後も生活することを望む姿がうかがえる。
終章である第9章では、現場調査の結果を踏まえ、研究設問と照らし合わせて分析と考察を行う。ライフストーリーを通じてイスラエル・ユダヤ人の意識や実践に迫ると、国境を越えた移動が必ずしも全てのイスラエル・ユダヤ人にとって同じ意味合いを持つわけではなく、来日時期や目的、帰還予定や社会的立場によって変化することが明らかとなった。また彼らの上の世代にあたる過去の移動の経験も彼らの移動に影響を与えており、個別的・歴史的文脈の重要性が見出される。こうした議論は、西欧におけるイスラエル・ディアスポラ研究では自明視されたために触れられてこなかった割礼や言語継承などの家庭での実践や、ジェンダーに基づくディアスポラ的態度の違いにも焦点を当てることを促す。本研究は欧米圏のイスラエル・ディアスポラの枠組みには収まらないものとして、また不変的な故郷認識の考え方を乗り越え、集団内の個別性にも着目するものとしてディアスポラ研究に新たな視座を提供するものである。